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PROLOGUE
シマノは100年前、創業者・島野庄三郎の夢と情熱から始まりました。いかなる苦難にも決して屈せず、悲観せず、ひたすら前へ。
とりわけ、技術習得への貪欲さでは人後に落ちず、果敢に様々な改革を行いました。天性ともいえるリーダーシップと行動力、厳しさの中にも人を惹きつける魅力を併せ持ち品質の向上と業界の繁栄に生涯をかけたといっても過言ではありません。
シマノの100年は、挑戦の歴史でもあります。
それは、創業者のDNAが今日まで脈々と受け継がれてきたことの証しといえるでしょう。
昔の堺
不幸な幼年時代
島野庄三郎、大阪府堺市で誕生。
貧しい家庭に生まれ、幼少期に親元を離れて親戚宅に預けられた庄三郎は、風当たりの厳しい環境の中で育ちました。しかし、子どもの中ではガキ大将。近所の仲間を集め、常に先頭に立って、新しい遊びを考案してはみんなを楽しませ、朝から晩まで遊ぶ日々でした。小学校に入学すると集団生活や束縛の多さから学校嫌いとなり、やんちゃに対する厳しいおしおきにも耐えかねて、3年生で学校を辞めることとなりました。
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庄三郎と朋友・山内一夫
徒弟時代
小学校に通わなくなってから数年間は、祖父の野良仕事を手伝ったり、相も変わらずガキ大将で遊んだりしていましたが、ついにその度が過ぎ、家を追い出されてしまいます。しかし、次に母方の親戚である山内家に預けられたことが、朋友・山内一夫との出会いや、その後の人生につながる大きな転機となります。山内家に愛情をもって迎えられた庄三郎は、持ち前のリーダーシップと実行力、手先の器用さ、頭の回転の早さを発揮し、重宝な働き手として頭角を現していきます。
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旋盤工にかける
14歳になった庄三郎は本格的に徒弟に入るため、家を出ました。最初に選んだ道は、堺市の伝統工業である刃物職人でした。しかし、勘と模倣で伝統の技術を守っていく閉鎖的な風習が根強く、個人の創意工夫や改善が認められないこの業種は、自主性に目覚めた庄三郎には耐えられない環境でした。そして、新たな道として、近代業革命の真っただ中にある機械を駆使する旋盤工へ修業に入ります。当時の日本では少しでも他より先んじた技術の持ち主が求められ、優遇されたのです。
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師と友人にめぐまれて
旋盤工の徒弟の仕事は、甚だ厳しいものでした。しかし、庄三郎はそれを苦痛に感じるどころか、むしろ様々なことを教えてくれる師の情熱に感謝しつつ、仲間とのよきライバル関係を構築し、3年間に及ぶ修業の中で旋盤工としての基本的な技術を身につけました。また、さらに新しい知識と技術を体得するため、職場を変えては経験を積み、自らを研鑚していきました。貪欲に修業を重ねた庄三郎は、職工として、さらには職長として迎えられるまでに成長していきました。
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30歳代の庄三郎
同じころの庄三郎(上段右端)
鉄工所を興す
第一次世界大戦後の大不況で工場が相次いで操業停止となる中、仕事のない庄三郎は独立を決意します。同僚はかつての仲間一人、仕事場は堺市東湊の12坪の元セルロイド工場、設備は友人から借りた旋盤一台。「島野鐵工所」を創業したのは、庄三郎26歳の冬のことでした。機械の修繕屋から始めた仕事は、確かな腕と決してごまかしのない対応で評判となり、2年目には、かねてから目をつけていた自転車のフリーホイールの生産に着手。当時自転車産業が盛んだった堺でも、特にこの部品の生産は難しく、品質にも改善の余地が多くあったからです。
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シングルフリーホイール
トレード
マーク
1921~30年ごろに庄三郎が独自に考案したボブ盤によるフリーホイールの歯切削機
1930年代の
本社工場
正直な精神と品質への情熱
庄三郎は寝食を忘れてフリーホイールの改良に没頭し、シマノ独自の焼入れ技術の開発にも成功。「品質が伴わないものは、いくら営業しても売れない。逆に言うと、高品質な製品であれば、営業せずとも必ず売れる」と確信していたのです。さらに、機械の改良に対する研究にも力を入れ、旋盤の運転方法を合理化し、良質の製品を安定して生産できるようになりました。そのころ、シマノ初のトレードマークを創案。当時世界的フリーホイールメーカーであったイギリスのB・S・A社の3本の銃にあやかり、3本の矛に、庄“三”郎の3にちなんだ「3.3.3.」の数字を記したデザイン。こうして、世界制覇への意気込みを持ってものづくりに臨む庄三郎の心意気が、フリーホイールに刻まれました。
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「日本自転車共進会」島野庄三郎社長
(前列右から2人目)
緑綬褒章・
紺綬褒章・
正六位・
勲五等などの
褒章を授与
業界指導者への飛躍
操業の安定に伴い、庄三郎は業界全体に目を向けます。当時、零細企業の集まりだった堺の自転車産業は、不況になると倒産が相次いだり、粗悪品が横行したり、業界全体の信用を落とすという悪循環にありました。業界の繁栄なしには自らの企業のさらなる成長はない。そう痛感していた庄三郎は、自転車産業を一人前の業界に仕立てたいという強い信念があったのです。庄三郎は数々の自転車産業の組合に所属し、先陣をきってその改革に着手、業界を牽引するリーダーとしての手腕を発揮しました。
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庄三郎の葬儀には多くの
参列者がかけつけた
堺市内に島野庄三郎
顕彰碑が建てられた
生涯の幕を閉じる。
享年65
島野庄三郎 永眠。
創業者はシマノに多くの功績を残してくれました。庄三郎を突き動かしたのは、ものづくりへの執念と情熱、そして従業員への愛情でありました。従業員が前向きに挑戦して失敗したときは決して非難せず、励まし、応援するのが常でした。逆に熱意や明確な計画のない仕事をすると、役職に関わらず徹底して叱ったといいます。しかし、仲間を大切に思い、相手の失敗や過ちを引きずらない寛容な人柄が、従業員との信頼関係を強くしていたのです。
「和して厳しく」。それは、一人ひとりの妥協なき自己実現のうえに成り立つ協力と調和の精神を表しています。創業者・島野庄三郎の遺志を継ぐこの言葉は、挑戦のスピリットとともに世界中のシマノの従業員に受け継がれています。
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